コーティング専門店GLOSSY
『僕が使命に出会うまで、』
開業から1年たった頃、
1年の定期メンテナンスで戻って来た車を見て僕は発狂しそうになった。
ボンネットとルーフが『シミだらけ』になってしまっていたのだ。
たった1年でこんな状態になるなんて関東ではあり得ない。
言い訳を考えてる暇なんてない。とにかくキレイな状態に戻してあげなくては!
しかし、この現象はこの1台だけで終わらず、その後数十台にも同じ症状が発生していました。
それからしばらくの間、夜中までコーティングのやり直しの日々が続く。
疲労が限界に達すると床で就寝し、目が覚めたらまた作業に戻る。
そんな生活が普通になっていった。
このままでは僕の体と心、店が潰れるのは時間の問題。
原因がわからないままひたすら『やり直し』を繰り返す。
色々調べた結果、雪国特有の『融雪剤』が悪影響を及ぼしガラスコーティングをダメにしている様だった。
10年以上関東に住んでいた僕にとっては『盲点』だった。
『やり直し』なので当然利益は無い。まだ子供も小さいのに、俺は何やってんだ、、、、。
恥じを覚悟で親に借金し、どうにか生活しながら融雪剤に負けないコーティングを探す日々。
手に入るコーティング剤を片っ端から取り寄せ、実験を重ねた。
しかし、結局どれもゴミ同然の代物。
ハイブリッドだろうが、ナノテクだろうが、『新潟』で使えなかったら意味無いんだよマジで。
やるだけのことはやったつもりだったけど、間に合わなかった。
ちょうど借りたお金も無くなり、
僕は店を畳むことにした。
お客さんには申し訳なかったけど僕は、コーティング剤が進化しない限り
『新潟』で真面目にこの仕事と向き合うのは不可能だと悟った。
不思議とすっきりした気分だった。
色々実験できて楽しかったし、諦めもついた。
その後、別の業界に就職するも数ヶ月で『うつ』を発症。しばらく粘ったが、見かねた嫁に諭され1年ほどで退職。
やっぱり僕は『やりたいこと』をやってないと腐る人間だということに気付かされた。
僕は再び『GLOSSY』を再始動しようと考えたが、『融雪剤によるシミ』のトラウマが邪魔して踏み出せずにいた。
すると、偶然出向いた研修会で初めてアメリカの『セラミックコーティング』というものを知って感激した。
触り心地からして『ベツモノ』だった。実際使ってみると、別格に良い!
しかし耐久性はもう一歩足りない。これではまだ不十分だ。
どうせなら『世界一のセラミック』を使うべきだと思い立ち、設備含め数百万円を再投資。
世界トップ2社の『正規代理店の権利』を獲得。これが大正解。更にお客さんが自分でメンテできるケミカルを開発し、
保証も国内トップクラスにすることでいよいよ過酷な新潟県でしっかりと価値を提供できる様になりました。
新潟のカーオーナーさんがカーケアのことで悩まないためにこれからも楽しみながら活動していこうと思います!
Ps. マジであの頃には戻りたくない(笑)
プロフィール
GLOSSY代表:森 新太
主な経歴
・新潟市東区生まれ
・新潟工業高校機械科卒業
・東京科学芸術専門学校卒業
・オートバイレース国際A級ライセンス取得
・関東エリア選手権GP125クラス年間チャンピオン
・全日本ロードレースGP125クラス参戦
・Moto GP 世界2輪ロードレース参戦
・全日本ロードレースST600クラス参戦
・オートバイカスタムペイント業界へ参入
・世界耐久選手権 鈴鹿8時間耐久レース
チャンピオンマシンのペイントを担当
・東京科学芸術専門学校講師
『モータースポーツ、塗装技術指導』
・フェラーリ用チタンマフラーブランドプロデュース
・サーキットライディングインストラクター
・カーコーティング専門店『GLOSSY』代表
・本質のカーケアブランド『SPECIALE』運営。
・カーケア特化メディアサイトの運営及び監修
『月間10万PV獲得』
F1ドライバーを夢見るほど車が好きだった僕だったが、高校へ進むと興味はオートバイへ移り、プロレーサーへの憧れが強くなった。
東京の専門学校へ進学し、先輩に連れていかれたレースに当日エントリーさせられ出場するといきなり表彰台に乗ってしまった。
これをきっかけに、自分のことを『天才』だと勘違いし、プロを目指すことに。
サーキットでの練習日以外は昼も夜もアルバイトの日々。
当然食事も質素。
バイトの賄い以外はほぼ毎日、納豆と実家からの仕送り(さとうのご飯)だけを食べる極貧生活。お金がないのでオートバイはズタボロ。
カウルはガムテープで修理していたので、転ぶとすぐにバラバラになった。
それでもなんとか自分で修理しながら徐々に成績を伸ばす。
諦めない気持ちだけで関東エリア選手権の年間チャンピオンを獲得し、相変わらずズタボロのオートバイを携えて全日本へ参戦。
2005年にはmotoGP 世界二輪ロードレース選手権参戦を果たす。
その後チームのスカウトにより、プロライダーとして全日本ST600クラスに参戦。
約10年のレーサー人生に区切りをつけ、引退を機にGLOSSYを立ち上げる。